『あなたへの恋文』(創作小説)
はしがき
私のあなた様への愛は真実の愛であると断言できましょう。あなた様のためならどんなお金も時間も惜しくありません。この手紙を書いている内にそれが確信できたのです。勢い任せに書いた恥ずかしい恋文ではありますが、どうかお読みになってください。お返事は必要ありません。愛をこめて。
親愛なるあなた様へ。はじめまして。恥ずかしながら、私はあなた様へラブレター、いわゆる恋文と言うものを初めて書いてみようと思います。恋文を書くのもこれが初めてです。本当ならば、あなた様のお名前をお聞きして、少なからず交流を深めてからこういうことはするんでしょうけれども、あなた様は決して私とお話してくれないので、お名前を聞くこともできませんでした。突然のことでさぞかし驚きになっているでしょうけれど、どうかこの手紙をご覧になってください。
昔から私は人を好きになることがほとんどありませんでした。そもそも人づきあいが苦手な性分だったのも相まって、人に心を開けず、人を信じることもありませんでした。人の愛は欺瞞に満ち溢れております。しかし、私のあなた様への愛は違います。これほど純な愛は存在しないと確信しております。あなた様が決して私に振り向いてくれないことを理解しておりますゆえ、このような捨て身の愛を向けることが出来るのでしょう。私はあなた様をずっとお慕いしております。
私があなた様に初めて気が付いたのは七歳の時であります。実際には私が自我を持った時からなんとなくお慕いしていたようには感じますが、正確にあなた様を捉えたのは七歳の頃だったと存じます。私が放課後一人で漫画を読んでいて、ふと顔を見上げた瞬間にあなた様の後姿を拝見しました。子供ながらに「なんとかっこいいんだろう」と感じたものですが、あなた様を追いかけることもできずにただ茫然としている内にあなた様はどこかへ行かれてしまいました。
次にあなた様をお見かけしたのは私が十四歳の時であります。多感な時期でしたから、私は簡単に恋に落ちてしましました。あなた様は日々ぼんやりと私の前を歩いておられましたから、私もいつかあなた様に追いついてしまいたいと思っていたものです。その時、私はあなた様に少しづつ近づく方法に気が付きました。簡単なことで、走れば良いのです。そのたびに私はあなた様へお近づきになることが出来て、どんなに嬉しかったことでしょう。それでも私は決してあなた様に追いつくことはできませんでした。
そして十八歳の時、人生で最も大変だったと言える試験の直前、私はあなた様の背中を眺めながら勉強しておりました。その試験を終えた時、私はあなた様の真横へ行けたように感じておりましたのに、少し時が経つとあなた様はどこかへ行ってしまいました。なんと思わせぶりな方なのでしょう。私はあなた様の真横にいられた時の高揚を忘れられずにおります。この前も私が試験に受かったとき、あなた様は私に微笑んでくれたように感じます。私が自己研鑽の運動をするたびに私はあなた様に近づけたように感じます。そのたびに私は自分が恋をしていることを感じます。ああなんと罪深いお方なのでしょう。私はあなた様に振り回されるばかりの人生を未だに送っております。
それでも私は決してあなた様が私のもとに近づいてきて、私のものになってほしいとは思いません。そんなことをされたら私の人生は無価値なものになるでしょう、私にとって人生とはあなた様を追いかける旅であります。恋路と言い換えることもできましょう。恋愛が苦手な私が生まれながらに片思いしているのがあなた様なのです。ですので、あなた様に近づきたいと日々お慕いしておりますが、決して追いつきたくはないのです。追いついた時、私の旅路は終わります。それでも私の最後はあなたがいいと心から思います。最後、人生の終着点であなた様が私と一体になってくれたらそれだけで無上の幸福であります。
あなた様からの御返事は無いでしょう。それでもいつかあなた様に振り向いてほしいと存じます。名残惜しいですが、お元気で。
他ならぬ、理想の私であるあなた様へ。私より。
KingGnu常田大希は『小さな惑星』が好きじゃない説【新CEREMONY期待】
KingGnuの第3作目のアルバム、『CEREMONY』の8曲目に収録されている『小さな惑星』。邦ロックとJPOPの良いとこどりをしたような爽やかなサウンドと歌詞が人気の曲で、HondaのCMとタイアップしたこともあり、KingGnuの曲の中でもわりと上位の人気を誇ります。
新曲「小さな惑星」がHonda VEZEL新CM「PLAY VEZEL 昼夜」篇のCMソングに!! 本日からWEB公開&全国放映開始!!! | KING GNU
King Gnuの「CEREMONY」をApple Musicで
しかし、この小さな惑星、未だにライブで演奏されたことがありません(2023年1月5日現在)。加えて、KingGnu界隈では「KingGnuは小さな惑星が好きではない」という疑惑まで流れていたりします。
というわけで、この記事では「KingGnuは小さな惑星が好きではない」と言う疑惑を多角的に検証していこうと思います。
これまでのライブ
ええ、ファンの皆さんはご存じだと思いますが、小さな惑星がライブで演奏されたことは1度もありません。収録アルバムである『CEREMONY』の名前を冠するライブツアー、King Gnu Live Tour 2020 AW "CEREMONY"でも演奏されることはありませんでした。(筆者は東京ガーデンシアター公演に参加しました。)
ちなみにそのツアーは未収録曲である『Vivid red』が演奏された唯一のツアーです。いや、なんでやねんという感じではありますが、まあ名曲なので良し。
インタビュー記事
CEREMONY発売に際して、KingGnuのインタビューがRolling Stoneに掲載されています。
『本来だったら俺はこんなの絶対にNGを出す、というものが世に出ていったり』という発言を常田さんはこのインタビューでされています。
どの曲であるかは明言していませんが、CEREMONYの発売時期である2019年のインタビューであることから、CEREMONYの収録曲(開会式などのインストを除く)であることが推測されます。では、どの曲のことなのかを消去法で推測していきたいと思います。
『白日』と『飛行艇』
おそらく、『白日』と『飛行艇』では無いでしょう。
白日に関して、常田さんはこのように発言しています。
また、飛行艇についてはこのように発言しています。
この2曲に対しては、かなり好意的な印象が読み取れます。そもそも白日と飛行艇はCEREMONYを制作する前から存在していた曲なので限りなく白に近いと考えられます。
『Teenager Forever』
また、『Teenager Forever』も白でしょう。もともと、Teenager Foreverは常田さんが温めていた曲で、満を持して発売した曲のようです。
(消されてしまうかもしれませんが、YouTubeで旧バージョンを発見したので載せておきます。)
『壇上』
壇上もおそらく違うでしょう。アルバムの中でもかなり異質な曲になりますし、メンバーの思い入れもかなり深いようです。少なくとも工場的に作られたものではないでしょう。
『Overflow』
もともと家入レオさんへの提供曲として作られたこの曲。この曲が世に出せないものという線は相当薄いでしょう。
『どろん』と『傘』
ここから少し難しくなってきますが、この2曲に関してはMVが存在し、傘に関してはメディアでのライブ露出も行われています。おそらく違うでしょう。
『ユーモア』
実はユーモアと小さな惑星の2曲、扱いの差はほとんどどっこいどっこいです。2曲ともMVは存在せず、メディアへのライブ露出もありません。しかし、ユーモアは 『King Gnu Live Tour 2020 AW "CEREMONY"』と『King Gnu Live Tour 2021 AW』で演奏されています!
『小さな惑星』
MV無し、ライブ演奏無し、公のインタビューでの言及無し。あまりにもかわいそうなこの曲。
というわけで、インタビュー記事の常田さんの発言(『本来だったら俺はこんなの絶対にNGを出す、というものが世に出ていったり』)というのは小さな惑星の可能性が高いのではないかと思われます。
FCライブでの発言
明確なデータが用意できなくて申し訳ないのですが、『King Gnu Live Tour 2022 CLUB GNU EDITION』(FC限定ライブ)の幕張公演の2日目、ファンからのお便りコーナーでこのようなトークがありました。筆者はその日に参加したのでその場面に立ち会うことが出来ました。
(明確なデータが無いので、関連するツイートを貼ることでしか信憑性を増すことが出来なくて申し訳ないです)
とまあ、幕張公演の時、常田さんは小さな惑星をすっかり忘れてしまっていたようです。圧倒的不遇。
まとめ
常田さんが小さな惑星を好きではないと思われる理由をまとめてみましたが、いかがだったでしょうか?
先日、常田さんのInstagramアカウントでインスタライブがあり、「2023年の春夏に新CEREMONYツアーを行いたい」と発言したようです。この新CEREMONYツアーでは小さな惑星は演奏されるでしょうか。楽しみに待ちたいと思います。
『あの景色』(創作小説)
真実の愛ですか?そんなもの私にはわかりませんよ。こんな冴えない男にそんな難しい質問の答えはわかりません。あなたの方がきっとお詳しいと思いますよ。あーでも、真実の愛と言えば一つだけ忘れられない思い出が私にもありますねえ。大した思い出じゃないんですがね、まあ聞いてくださいよ。ひょっとしたら、何かヒントになるかもしれません。
私が高校三年生の時の秋ごろだったかな。クラスで席替えがあって、クラスの一番右側で一番廊下に近い列の後ろから二番目になったんですよ。当時受験勉強をしていた私は授業中に内職ができることを喜んだもんです。自分の前の席には器械体操か何かの部活動をやってて、線が細くてポニーテールが良く似合う女の子が座りました。席替えをして間もない頃、授業中に内職をして、たまに黒板を見ようとすると前の席に座っているその子も目に入って、その子はよく左の窓の方を向いていて、景色を見ている様子だったんで、窓の景色を見るのが好きなのかなと思ってたりました。
そんで、休み時間に英単語の勉強をしていたら前から視線を感じたんです。顔を上げると、前の席の女の子がこちらをじっと見ているわけです。その子とは全然話したことも無かったし、自分に自信が無かった私はその子がガリ勉の自分を馬鹿にしてるんじゃないかと思って、追い払ってやったんです。
確かその年の十月か十一月にKingGnuとかいうバンドのライブがありまして、あー今はもう解散しちゃったんでしたっけ、まあ当時の私は受験勉強なんかほっぽり出してそのライブに行くほどのファンで、そのライブに行ってきたんですよ。そこで出会った社会人の女性にお寿司奢ってもらっちゃったりして、楽しい一日でした。まあそれはさておき、その翌日、教室に入ると、前の席の女の子が私に「KingGnuのライブ楽しかった?」と聞いてきたんです。そういえば、ライブに行く話をしたっけなあなんて思いながら、その子にライブについて熱く語ったんです。
ライブの話をしたその日から、前の席の女の子は私によく話しかけてくるようになって、一日に十回はこちらを向いて話しかけてくるようになりました。唐突にグルっと振り返って話しかけてくるもんですから、最初は話しかけてくるたびに少し驚きました。んで、何の話だったかはよく覚えてないんですけど、確か数学の問題を教えてた時かな、その子が満面の笑みでこちらをじっと見つめてくるわけです。その顔を見て、恥ずかしながら、その時、私は初めて理解しました。ああ、女の子は本当に好きな人にはこんな顔をするんだなと。まあ見当違いだったら恥ずかしいことこの上ないんですがね、よくあったじゃないですか、脈ありサインだの脈なしサインだの。今の若い子はもう違う言い方をするみたいですが、まあ本質は変わりません。そんなちんけなサインなんか吹き飛ばすような全力の好意を私はその子に向けられたんです。友達に冷やかされるくらいでしたから、その子が私を好きなことはみんなにバレバレだったようです。
でも、私はそれを素直に受け取れなかったんですね。その子に全力の好意を向けられるたびに、輝かしい光を感じつつ、それに押し潰されるようなそんな恐怖を感じました。こんな情けない自分はそんな素晴らしい愛を受け取るには値しないって考えちゃって。如何せん、自分に自信のない思春期の男子ですから、傷つくことが怖かったんです。ええ、今思えば私もその子も不器用だったんですね。
結局、私は怖くなって逃げました。その子に話しかけられても冷たくあしらったり、時にはひどい言葉を投げかけてしまったり、隣の席の女の子にわざと話しかけて嫉妬させたり、本当に酷なことをしたなと思います。そんなことをしている内に、その子が窓の景色を見るふりをしながら私の様子を伺っていることに気が付きました。きっとどうすればいいのかわからなかったのだと思います。その時私は理解しました。ええ、私は最初はその子が窓の景色を見るのが好きな子だと思っていましたが、本当はただ、気が付かれないように私の事を見ていただけだったんですね。
あれからだいぶ時が経った今でもふとあの子の顔を思い出すんですよ。あの子の満面の笑みが忘れられなくて。情けない話でしょう?あれ以来、いろんな恋愛のようなものをしてきましたが、あの高校生の時のような純な感情は二度と味わえませんでした。まあただ逃がした魚は大きいと言えばそうなのかも知れませんが、真実の愛って見当たらないようで実はもう知っているのかも知れないとも考えるんです。
はは、辛気臭い感じになっちゃってすみません。では、妻と子供たちが待っているのでそろそろ失礼します。ええ、本当にみんないい子で、私は幸せなんですよ。本当に、もったいないくらいで。
【ファンが考える】風さんの宗教問題&なぜサイババの名前が一切出ないのか
それは唐突に
先日、藤井風さんのTwitterがこのような状態になっていた。過去のツイートが全て削除され、アイコンも初期のものになり、実質的にTwitterを辞めている状態である。(2022年12月31日執筆当時)
加えて、Instagramストーリーでこのような発言を藤井風さんは行った。
(筆者はリスニングが苦手なので、Twitterに上がった和訳を参考にして理解しました…)
なぜこんなことが起きたのか
筆者は藤井風ではないし、藤井風さんから直接話を聞いたわけではないので断言はできないが、おそらくSNS上(主にTwitter)で騒ぎになっている藤井風さんの宗教問題が原因であると考えられる。
noteでもこのような活動が行われていたりする。
彼らの主張をまとめると、(といっても様々な人がいるのでアバウトなまとめ方になることをご承知ください)
①藤井風がサティヤサイババを信仰するのは自由。
②藤井風の作品がサティヤサイババの思想の基づくものであると知らせないチーム風の運営方法に問題がある。⇒これは個人の持つ信教の自由を侵害するものではないか?
③藤井風の思想に影響を受けすぎてこれまでの生活が困難になった人がいる(といっても観測できた実例はTwitterで1例のみ)
④サティヤサイババの詐欺師や性犯罪疑惑
ということになるだろう。(間違っていたらごめんなさい。コメント欄で教えていただけると嬉しいです。)
私の考え
ということで、彼らの主張に対して筆者である私個人の考えを述べていきたい。
①藤井風がサティヤサイババを信仰するのは自由。
⇒それはそうだと思う。
②藤井風の作品がサティヤサイババの思想の基づくものであると知らせないチーム風の運営方法に問題がある。⇒これは個人の持つ信教の自由を侵害するものではないか?
⇒これは一理あるなと考えさせられた。しかし、実際に信教の自由を侵害された人と感じる人がどれほどいるのだろうか?藤井風さんの音楽に関わる人の中でそのように感じる人はごく僅かではないだろうか?必要以上に事を大きくしようとしていないだろうか?と個人的には考えている。
加えて、抗議活動の発端が、実際に信教の自由を侵害された人の訴えというよりも、信教の自由を侵害するのではないかという推測であるので、、、
③藤井風の思想に影響を受けすぎてこれまでの生活が困難になった人がいる
⇒これに関しては藤井風における問題というよりも個人の問題ではないかと考える。特定の何かに入れ込みすぎて生活が困難になったり家族を苦しめる人というのは、多かれ少なかれどの界隈にもいる。
例を挙げると、アーティストとかアイドルのグッズやCDを限界まで購入したり、ホストやキャバ嬢に死ぬほど貢ぐ人もいるし、悪い例だと新興宗教にハマって家庭を崩壊させてしまう人もいる。
特定の何かに入れ込んで生活が困難になってしまったり、家族を苦しめるということを良いことだとは決して思わないが、このような事例は普遍的に存在する上に、チーム風の場合は強烈な勧誘や洗脳(新興宗教が大金を寄付させたり、ホストが客に貢がせるような)を行っているわけではないので、この場合は受け取る側に問題があるのではないかと思う。
④サティヤサイババの詐欺や性犯罪、殺人疑惑
これに関してはなんとも言えない。事実関係がはっきりしないと何かを断言することはできない。ただ、サティヤサイババの考えが好きな人(例えば藤井風さん)に対して、「サティヤサイババはペテン師で性犯罪者だぞ」と言うのはいささかデリカシーに欠けるとは思う。(怒るのは当然)
加えて、歴史的にはキリスト教徒や仏教徒、イスラム教徒などの信者による詐欺や性犯罪、殺人行為などは行われてきた。それらは決して許される行為ではないが、そのような行為はサティヤサイババに限った話ではないことに留意したい。
なぜサイババの名前が一切出ないのか
(ここからは完全に私の憶測です。)
おそらく、チーム風は
藤井風が充分に売れるまではサイババの名前を出さず、
藤井風が充分に売れた時にサイババの名前を出そう
と考えているのだと思います。
その理由としては、やはり日本では新興宗教やスピリチュアルというのは受け入れられ難く、特にサティヤサイババという存在は胡散臭いと思われていることを十分に理解しているからでしょう。
藤井風さんの考え方自体はデビュー当時から何も変わっていないとは思います。しかし、デビュー当初から藤井風さんの愛するサイババやインドの世界観を全開に押し出していた場合、きっと売れるには難儀する、誤解されるとマネージャーのずっずさんは考えたのだと思います。
藤井風さんの音楽性を先に出して、人々を惹きつけた後に風さんの世界観を見せていくつもりだったことがわかります。今はその過渡期なのです。
おそらく、今後、いつかのタイミングで公式でサティヤサイババについて言及するときが来ると私は予想しています。そのタイミングがもうすぐなのか、ワールドツアーを終えた時なのか、はたまたもっと後なのかはわかりません。
しかし、先日パナソニックスタジアム吹田で行われたライブではインドのお香を炊いたり、ベジタリアンフードを展開したり、インドの国旗を模した旗を演出に用いるなど、風さんの世界観は徐々に我々に開かれつつあります。
きっと遠くない日、我々が藤井風さんを理解する準備が整ったとチーム風が判断したら、サイババの名前もいつか登場するでしょう。
後記
今回の件では藤井風さんも言いたいこと言ったな~って感じで、藤井風さんにとっては大切な教えであるサイババの教えを外野にあーだこーだと批判されるのは頭に来たんだろうな~って思ってます。事実はともかく、自分の好きな人をペテン師だの性犯罪者だと言われたら誰だって嫌ですよね。
世界的に名が知れるビッグアーティストになり、精神的にはとても大人びているとはいえ、風さんはまだ25歳の青年ですし、まあそういうこともあるよね~と個人的には思っております。
私個人の考えでは人が何を信じようが自由だし、アーティストが何を表現しようが自由だと思います。てか、アーティストって表現するのが仕事ですよね?いつの間にかただの娯楽を生み出すのが仕事になったのでしょう。
何はともあれ、音楽を通じてご自身の考えを広めるというとても面白い試みをされている藤井風さん。今後の活躍にも期待しています。
追記
『grace』の歌詞に絡めて抗議活動をするのは個人的には止めてほしいです。抗議活動が間違っているとは言いません。むしろ自分の考えを整然と主張するの良いことだと思います。でも、『grace』という素敵な曲の歌詞を聞くたびに抗議活動のことが思い起こされるのは悲しいです。
『欲望のラーメンの果てに何を見るか?』(創作エッセイ)
エピクロスによる古代ギリシャ哲学であるエピキュリズムはその祖であるアリストテレスやストアの哲学とはある点で一線を画す哲学である。どの哲学においてもユダイモニアという人間の最高の幸福を追求することが目的であることには変わらないが、その追求方法が大きく異なるのである。
例えば、アリストテレス哲学では人に親切にすること、努力すること、自己実現など、生きがいを感じることによってユダイモニアを育むことができるとした。しかし、エピキュリズムはその代わりにユダイモニアを追求する方法として人生を楽しむことを提示した。
エピキュリズムは人の幸せを2種類に定義した。
1つ目は、身体の苦痛、心の乱れが一切無いことから生まれるStatic pleasure(以下、平穏の幸せ)。この平穏の幸せに辿り着くことが我々の目的である。
2つ目に、食べることや寝ること、友情を育むこと、まぐわうことなどによるKinetic pleasure(以下、一過性の幸せ)である。
エピキュリズムでは、我々は平穏の幸せに辿り着くために一過性の幸せを用いる必要があるとされている。
例えば、空腹を食事で満たす場合、食事という一過性の幸せによって空腹の苦しみから抜け出し平穏の幸せを得ていると言える。
よって、我々がラーメンを食べるのは平穏の幸せを追求する手段として一過性の幸せを用いた結果だと言える。
しかし、行き過ぎた一過性の幸せの享受は人を不幸にするという。平穏の幸せを超えるほどに一過性の幸せを享受した場合、それは病気や依存、破滅へ誘うだろう。
我々はラーメンを食べ過ぎていないだろうか?いや、ラーメンそのものが一時的な幸せとして過剰なのではないだろうか?
そんなことを考えながら、今日もラーメンを口に運んだ。人間の知性など、本能の前には無力である🥰
ちなみにエピキュリズムにおいて神は存在するが、我々人間が小さな虫のことなど考えないように、神も同様に人間のことなど考えていないとされている。
(この文章には不正確、不適切な表現、筆者の考えが多分に含まれます。)
『燃火の教え』(創作小説)
紀元前5世紀から7世紀ごろ、詳しい年月は明らかになっていないがブッダという人物がいた。本名をゴータマ・シッダルタと言い、彼は現在におけるインド周辺を回り、教えを説くという生活していた。そんな彼にはこんなエピソードが伝わっている。
いつものようにブッダが教えを説いてインドを回っている中、ブッダとその弟子達の一行はふとお腹が空いたので、「象頭山ラーメン」というラーメン屋に立ち寄ることにした。
そこはバラモン教のカッサパ三兄弟とその弟子達が営む、強火で煮込んだスープが評判のラーメン店であった。
石造りの店に入ると、ブッダ一行はカウンター席に座り、厨房にいるカッサパ三兄弟にラーメンを注文した。カッサパ三兄弟は異教徒であるブッダ達に眉を顰めながらしぶしぶ調理を始めた。
待ち時間が退屈だったので、強火でスープを煮込む寸胴鍋を指差してブッダは弟子に問いかけた。
「この火を一瞬で消すにはどうすれば良いか?」
弟子は答えた。
「水をかけます。」
弟子は答えた。
「土で埋めます。」
カッサパ三兄弟は言った。
「やめてください。」
ブッダは答えた。
「ただ目を閉じれば良いのだ。そうすれば、私達の前から火は消える。熱を感じるのであれば、心を閉じなさい。そうすれば、完全に炎は消える。」
「私達の心はすべてが燃えている。私達の心だけではない、世の中の全てが燃えている。怒りや悲しみの炎はここから生まれる。この火が私達を苦しめるのだ。この火はやがて世界を焼き尽くしてしまうだろう。」
弟子達はブッダに問うた。
「では私達はどうすれば火を消せるのでしょうか。」
ブッダは答えた。
「この世界を大きな川の流れと捉え、自分も川に吸い込まれた1つの水滴であると考えなさい。そして自我を消し、欲を出さずに自然と調和しながら生きなさい。そうすれば火は消え、悩みも共に消え去るだろう。」
調理をしながらブッダの説法を聴いていたカッサパ三兄弟はとても感動し、こう言った。
「素晴らしい真理だ。ぜひ私達も弟子にしていただきたい。」
ブッダはそれを快諾した。
そんなことをしているうちにラーメンが完成し、カッサパ三兄弟はそれぞれラーメンをカウンター越しに丁寧に、最大限の敬意を込めて提供した。ブッダと弟子達はみんなで美味しくラーメンを食べた。
この時ブッダ達が食べたラーメンが何ラーメンであったかは諸説あるが、現在に伝わる仏教やヒンドゥー教では基本的に肉食は禁じられているため、この時ブッダ達が食したラーメンには肉は使われていなかったと言うのが定説ではあるものの、詳しいことはよくわかっていない。
(この文章はブッダの伝説を元にした筆者による創作です。)
『風花雪月』(創作小説)
ある朝、津布良風花(つふら ふうか)は奇妙な顔の痛みにより夢から目覚めた。彼女が急いで鏡を覗き込むと、自分の顔がまるで毒虫に刺されたように赤く醜く腫れあがっているのに気づいた。彼女の自慢の美肌はミミズ腫れに覆われ、瞼も満足に開かなくなっていた。
「これは一体どうしたのだろう?」と彼女は思った。
グレゴールという化粧品店で働く美容部員である彼女は美と健康には人一倍気を使っていた。スキンケアだってもちろん欠かしたことはない。加えて、彼女はインフルエンサーでもあった。店の売り上げの多くに彼女の影響力が貢献していた。彼女はその持ち前の美しさと影響力により店の中では女王として君臨していた。その傲慢さは他の美容部員達には疎まれていたが、彼女は嫉妬と割り切っていた。
しかし、こうなってくると話は変わる。彼女は自分の顔の腫れのことは隠し、体調不良により休むと職場に伝えると急いで病院へ向かった。
病院で下された診断は「ストレスが原因だと考えられるが、詳しい原因はわからない」という煮え切らないものであった。彼女はひどく混乱し、憔悴した。このままでは働くことができない。また、インフルエンサーとしての立場も危ういだろう。
「店はどうなる?私の立場はどうなる?」
病院から家への帰路で、彼女はひたすらに不安を抱え、考え込んだ。
家に到着し彼女がベッドに倒れこむと、彼女の頭の中は今の生活への不満で一杯になった。理不尽な客への対応やインフルエンサーとしてのプレッシャー、アンチに対するストレス、女社会での陰口や嫉妬。
「こう考えてみると確かにストレスを抱えすぎてたかもな、私。」と彼女は思った。
いつのまにか時計は13時を回っていた。彼女は自分が空腹を覚えることに安心し、いつも通りの美と健康のために野菜と鶏肉をふんだんに使った料理を食べようとした。低脂質高たんぱくが彼女の食事のモットーである。しかし、なぜか彼女の喉はその食事を受け付けなかった。その代わり彼女の体が欲したのはふとテレビに映った家系ラーメンであった。普段はラーメンなど断じて食べない彼女であるが、欲望に抗えず、かといって家から出るわけにもいかないので、ウーバーイーツで家系ラーメンを注文した。
ラーメンが到着すると彼女は飛びつくようにしてラーメンを食べた。信じられないほどの快感が彼女の脳を走り抜けた。低脂質高たんぱくの健康的な食事が好きだった彼女の味覚はいつの間にかラーメンのようなジャンキーな食べ物を好むようになっていた。
彼女の顔が醜く腫れあがってから三週間が経った。この三週間、彼女はほとんど毎食ラーメンかハンバーガーとポテトを食べていた。そのため彼女の体は脂肪を蓄え、皮膚は脂を滲ませ、ニキビを作るようになっていた。あの頃の彼女の面影はもはや消えかけていた。しかし、彼女の有給休暇はもう底を尽きそうになっていた。また、インフルエンサーとしての仕事も停滞し、しびれをきらした関係者からの連絡も鳴り止まなくなっていた。どうすることもできなくなった彼女はしぶしぶ職場へ出ることにした。
三週間ぶりに職場へ出勤した彼女を同僚がどのような感情を持って迎えたかは想像に難くない。女王として君臨していた彼女が変わり果てた姿で返ってきたことに、皆一様に驚いた。その次には店の売上を心配する者、彼女の不幸を喜ぶ者の二種類に分かれた。インフルエンサーの仕事の関係者達の反応はもはや赤の他人と接するものになっていた。
次第に彼女へ仕事は回ってこなくなった。これまで圧倒的な美と影響力により仕事を得ていた彼女はもはや無用な存在へと変わり果てていた。これまでの傲慢な態度も災いし、彼女の立場はもはや無くなってしまった。彼女が仕方なく店の裏で在庫管理をしているとふとこんな話が耳に入ってきた。どうやら彼女の影響力が無くなることを危惧した店長が彼女のいない間に店のシステムを大幅に変更し、従業員たちも一致団結し店を盛り上げるために努力しているらしい。そのため、これまでにあった派閥争いなども鳴りを潜め、すっかり風通しの良い職場に変わったようである。売り上げも彼らの努力があってか大きく落ち込むことは無いらしい。
彼女は耐えきれず、退職した。インフルエンサー活動も辞めてしまった。
すっかり変わり果てた彼女に残されたものはラーメンを食べる快楽のみであった。彼女は毎日ラーメン屋に通い続け、特に家系ラーメンを好んで食べた。華々しい生活から一転してさもしい生活を送っている彼女であったが、ラーメンを食べている間だけは間違いなく幸せだった。
彼女が武蔵家という千歳烏山駅にある家系ラーメンを食べている時、ふとこんな音楽が有線で流れてきた。和風テイストなそのJPOPの歌詞は不思議と彼女の耳に入ってきた。
『なかなか気づけんよね 何もかも既に持ってるのにね』
その歌詞を聴いた時、彼女はなぜ自分の顔が腫れたのかを理解した。
グレゴールでは今度、職場のみんなで旅行に出かけるようである。