toarudaigakuseizakkiの日記

自分の文章をネットの海に残すことを目的にしています。

『欲望のラーメンの果てに何を見るか?』(創作エッセイ)

エピクロスによる古代ギリシャ哲学であるエピキュリズムはその祖であるアリストテレスやストアの哲学とはある点で一線を画す哲学である。どの哲学においてもユダイモニアという人間の最高の幸福を追求することが目的であることには変わらないが、その追求方法が大きく異なるのである。
例えば、アリストテレス哲学では人に親切にすること、努力すること、自己実現など、生きがいを感じることによってユダイモニアを育むことができるとした。しかし、エピキュリズムはその代わりにユダイモニアを追求する方法として人生を楽しむことを提示した。

エピキュリズムは人の幸せを2種類に定義した。
1つ目は、身体の苦痛、心の乱れが一切無いことから生まれるStatic pleasure(以下、平穏の幸せ)。この平穏の幸せに辿り着くことが我々の目的である。
2つ目に、食べることや寝ること、友情を育むこと、まぐわうことなどによるKinetic pleasure(以下、一過性の幸せ)である。
エピキュリズムでは、我々は平穏の幸せに辿り着くために一過性の幸せを用いる必要があるとされている。
例えば、空腹を食事で満たす場合、食事という一過性の幸せによって空腹の苦しみから抜け出し平穏の幸せを得ていると言える。

よって、我々がラーメンを食べるのは平穏の幸せを追求する手段として一過性の幸せを用いた結果だと言える。

しかし、行き過ぎた一過性の幸せの享受は人を不幸にするという。平穏の幸せを超えるほどに一過性の幸せを享受した場合、それは病気や依存、破滅へ誘うだろう。

我々はラーメンを食べ過ぎていないだろうか?いや、ラーメンそのものが一時的な幸せとして過剰なのではないだろうか?
そんなことを考えながら、今日もラーメンを口に運んだ。人間の知性など、本能の前には無力である🥰

ちなみにエピキュリズムにおいて神は存在するが、我々人間が小さな虫のことなど考えないように、神も同様に人間のことなど考えていないとされている。

(この文章には不正確、不適切な表現、筆者の考えが多分に含まれます。)